家に帰ると予想通りの展開が待っていた。 陽南子の顔を見た祖母は、すぐに台所に走り、氷嚢に一杯の氷を詰めてくれた。 それを腫れた頬に当てながら、祖父に今日の見合いの様子と事のあらましを伝えることになった。もちろん、座敷に正座をして、だ。 「ばかもん!そんなことだから、いつまで経っても嫁に行けんのだ。 大体お前は、炊事洗濯何もできん。そのくせ女だてらに力仕事なぞしおってからに。あの時あのまま『姫さん学校』にでも行っておけば、今頃はもうちょっとはマシな女になっておったのに。儂らの言うことも聞かんで飛び出しおって」 男尊女卑てんこ盛りの、祖父、源之助の説教に思わず口ごたえの一つもしたいところだが、今日のところは我慢だ。何と言っても、非はこちらにある。 「だって、仕方がなかったのよ。あっちから絡んできたんだし、相手は酔っ払いオッサンだし」 「だが、お前がそいつを締めんでも、その場に見合いの相手の男もおったんだろうが」 「確かに側にいたわよ。ただし、助けてくれるどころか遠巻きに見ていただけだけど」 「まったくどいつもこいつも、今時の若いもんは…」 それを聞いた源之助はぶつぶつ言いながら、苦虫を噛み潰したような顔をした。 生まれも育ちも東京の下町で、生粋の江戸っ子である祖父は喧嘩っ早いが義理情に厚い。他人が困っているのを見て見ぬ振りなど、絶対にできない性分だ。 大体にして、陽南子の向こう見ずな性格の大部分はこの祖父に影響されたといっても過言ではない。それが分かっているから余計に、こういう時の源之助は陽南子には手厳しい。 「このままだと儂は、あの世に行った時に、優美子さんに…お前の母親に顔向けができん」 説教はいつも、最後に同じ言葉で結ばれる。 祖父は早世した息子の代わりのように、その嫁であった陽南子の母、優美子を可愛がっていた。その母が病床で苦しい息の下、今際の際に言ったことを、今も深く心に刻んでいるのだ。 『どうか、あの子を頼みます…』と。 ちなみに見合いの件は、その日のうちに先方から伯母の方に「断り」の電話が入った。 理由は、「私には立派過ぎて…」だったそうだ。 何がどう立派なのか、伯母も何も言わなかったし、あえて聞きたくもなかったが、とにかくこれでまた見合いの話はなくなった。 「陽南子、そのお洋服、早く脱いでおいで。ものが良いみたいだから、後でクリーニングに出しておいてあげるから」 朝、出掛けに彼女を見送ってくれた祖母は、陽南子が行きと帰りに違う服を着ていたことに気付いたようだが、ありがたいことに、それ以上何も言わなかった。 自分の部屋に引き上げた陽南子は、スーツを脱ぎながらふと気付いた。 「あちゃー、この服、お金払ってないや」 ホテルをチェックアウトする時に、フロントで何か請求されるかとどきどきした。部屋代は大地が払っているだろうと思ってはいたが、確信はなかったからだ。1泊50万のスィートの料金を請求されたら、彼女ではカードでも支払えない。 何も言われずキーを返しただけで終わったのでほっと胸を撫で下ろしたのだが、緊張のあまり、すっかり洋服代のことは頭から抜け落ちていた。 この服の代金も、恐らくは大地が立て替えてくれているに違いない。 陽南子はハンガーに吊るしたスーツを見ながらがっくりと項垂れた。 本当なら会いたくなかった。 啖呵を斬って大立ち回りを演じた上に、下着姿まで晒した恥ずかしさは、時間が経つごとに、後からじわじわと押し寄せてくる。 どうせなら、今日のうちに、礼を言って支払いを済ませ、何もかも一遍に片付けてしまいたかったところだが、大地がいなくなっていたのだから、どうしようもない。 「仕方がない。来週にでも返しに行ってこよう」 陽南子はため息混じりに、そうぽつりと呟いた。 その頃、大地は自分のオフィスに戻り、黙々と書類を片付けていた。 本来ならば、今日のパーティー後は夕方からオフになるはずだった。現に、弟の嶺河は会場からそのまま姿を消したし、他の役員たちも各々繰り出して行った。 本当ならば、今頃は彼も旧友と飲んでいたはずだった。 あの部屋で。 陽南子を隣室に送り出した後で、服のことを思い立った大地は、取り急ぎ電話でフロントを呼んだ。 「至急、女性物の服を一式用意して欲しいんだが」 フロント・マネージャーは、それを聞くと、ホテル内のアーケードにある店に連絡をつけてくれた。若い女性向きの、そのブランドショップの店員は、着る人間の大体の体型と年齢を聞くと、すぐに数点の洋服を持ってスィートに現れた。 「こちらなどは、背のお高い方にお似合いですよ」 その中で目に留まったのは、オーソドックスなスタイルのスーツだった。 スカートの丈は短めだが、挑発的というほどではない。今日来ていた服のものと、そう変わらない長さだろう。だが、彼を引き付けたのはその色だった。 真紅から黒のグラデーション、縁取りも黒いレースで統一されている。 「赤か…」 彼の中では、なぜか陽南子の色は火のような赤、それも紅蓮の炎の色のイメージだ。 青でも白でもそれなりには着こなすのだろうが、彼女に似合う色に、赤に勝るものはないように思えた。 「これを」 大地は手にしていた服を店員に渡すと、包装する前にすべてのタグを切り、すぐに着られるようにしてくれるよう頼んだ。 「支払いはこれで」 彼は自分のカードを彼女に渡すと、そう指示する。 「領収証はどういたしますか?」 「要らない。個人的なものだから」 その後、すぐに届けられた包みを手にすると、彼はサブのベッドルームに入った。2つ並んだドアのうち、右側から入ると浴室だが、もしかしたら、彼女がシャワーを使っているかもしれない。 そう考えた大地は、左側のドアをノックしてから開けた。 「陽南子さん、入るよ」 だが、果たしてそこには、ドレッサーの鏡に向かって身を乗り出すようにしてそれを覗き込む、陽南子の姿があった。 洗面台が入口の反対側に位置するため、こちらにお尻を突き出すようにして腰をかがめている。 彼女は鏡越しに彼と目が合うや否や、まん丸に目を見開いて、くるりとこちらに向き直った。 「ええっ、ちょちょっと待って」 だが彼は、いや、彼の目は待てなかった。 タオルで隠された彼女の胸元から腰のくびれ、そして足元まで、舐めるような視線を這わせる自分を止めることができなかったのだ。 何て長い足なんだ。 決して細いだけのものではない、筋肉質な形良い、真っ直ぐに伸びた足。 腰の位置からするに、かなり長いに違いなかった。 素晴しいのは足だけではない。肩も腰も、無駄な肉は一切ない、鍛え上げられたような身体の線だが、その中にある女性的な丸みの部分は、損なわれることなくそこに存在していた。 そして互いに固まったまま動けない間も、彼の視線は彼女から離れなかった。 目を上げると、ちょうど真正面にある大きな鏡に写るのは彼女の後姿で、先ほどのストッキング越しよりも、より鮮烈に見える赤い下着が挑発するように、滑らかな二つの丘の間に収まっていた。 「ちょっと、何見てるんのよ!服を着るからあっちに行ってて」 陽南子の焦ったような上ずった声に、ようやく理性を取り戻した大地は、張り付いた視線を引き剥がすようにして顔を背けた。 「すまん、鍵がかかっていなかったから…。着るものがないだろうと思って、下で見繕わせたんだ。良かったら着てみなさい」 彼は搾り出すようにしてようやくそれだけ言うと、急いでその部屋を後にした。 困ったことに、リビングに戻ってからも、先ほど見たものの幻影が目の前をちらついて離れない。 埃だらけの作業服の下に、あのように見事な身体を隠していたとは。 彼は自分の心と体の反応に戸惑っていた。 妻と死別してからというもの、周囲から言われるほど多くはないが、誘われて一夜限りの関係を持った女性は幾人もいた。 だが彼自身、いつもどこか冷めた目で彼女たちを見ていたような気がするのだ。それがベッドの中での行為の最中であっても。 実際に、自分から相手を欲したことはないし、モーションをかけたこともない。セックスに快楽を感じないわけではないが、しなければしないで、それを苦痛に感じることもなかったのだ。 以前は、自分はもう男としての本能がなくなってしまったのではないか、とさえ疑った時期もある。それを払拭するためにも、時々声をかけてきた女性と気軽に付き合い、ベッドを共にしたが、今はそれさえも億劫に感じる。いよいよ危惧が現実になってきたかと思ったが、だからと言ってそれに焦りを感じることもなかったのだ。 それが、彼女の身体を見た途端に、まず体が反応した。 陽南子の姿を目にしながら下半身に溜まっていく熱をどうすることもできず、さりとて彼女から視線を逸らすこともできなかった。 リビングに戻ってからも、自分の自制心に確信が持てなかった彼は、メモを残してそのままホテルを立ち去ることしかできなかったのだ。 危険な兆候だ。 大地はぼんやりとデスクに向かいながら、そう思った。 陽南子は軽い遊びとあしらっても良い女性ではない。しかしこの問題に正面から向き合うことは、彼の過去の苦しみを再び呼び覚ますことにもつながるのだ。 忘れたくても、忘れられない、あの苦悩の日々を。 HOME |